1愚弄 投稿者:黒嶋  投稿日:2017年04月26日(水)20時47分56秒
私は生まれたときからそこにいた。
2投稿者:黒嶋  投稿日:2017年04月26日(水)20時58分15秒
ぱた。
なにかが頬に落ちて私は意識を開く。
「起きたか」
狭い視界の端から声がして、その問いに私は肯定を返す。
餌の時間だ。
私は決まってこの時間に目を覚ます。
そういうふうに躰が出来ているのだと思う。
ぱた、ぱた。
次いで短く透明な雫が目の前を過ぎていく。
渇いた躰を雫は充たしてくれる。
私は無条件にそれらの恵みに感謝し、それらを信じていた。
その潤いは静かに染みていき、躰の芯まで届く。
栄養を頂く。
生きているが実感できる。

私は眼球を動かした。
景色はその眼球の動く限りしか映ることがない。
視界が私の世界の全てだった。
1日の始まりに、もう日常の一部として溶け込んだ隣の彼の姿も私には知る由もないのだ。
彼の情報は声だけだった。

「今日も素敵な日だな」

隣から情報が送られる。
私はそれに適当に応答した。しかし内心ではその問いに疑問を呈していた。
3投稿者:黒嶋  投稿日:2017年04月27日(木)18時41分35秒
定期的に贈られるこの恵みの名前を私は知らない。
知らないけれど、それによって私は目覚め、それによって生かされていた。
その贈り物が欠かされることはこれまでになかった。
私は素直に雫を受け取った。
そもそも避ける術などは持ち合わせていないのだが。
それを受けないと私は渇きから逃れられないため、それから逃れる理由も無かったのだった。

ただその与えられるだけの毎日を『素敵』だと形容するのには、些か違和感を感じるのだ。
私はその雫の落ちてくる頭上を飛ぶ影を知っている。
影は私の視界の端から端を横断していく。
私はその存在を知ると同時に、世界の広がりを実感せざるを得なかった。
映るものが全てなのではないのだと知ってしまった。

知りたくて堪らなかった。
外側の世界を。

物理的な渇きとは違う、知性の飢えをひたひたと感じていた。
それは私を焦らし、現状では満足出来なくさせていた。
隣の彼はどんな姿をしているのか。
あの影とおなじなのだろうか。
私はどんな格好なのだろう。
あの影はほんとうにただ影なのだろうか。

ぱたぱた。
雫はまだ流れていた。
ひんやりと心地よく、頬を流れていく。
4投稿者:黒嶋  投稿日:2017年05月10日(水)19時51分11秒
「ねえ、あのね」

その冷たさになすがまま、目を瞑り、彼に声をかける。
私から話しかけるなんて、初めてのことかもしれない。

「なんだい」

いつもと変わらない調子が返ってくる。
深く低い彼の声が脳髄に直接響くような、それでいて心地の良い落ち着くトーンだった。

「私、しあわせじゃないのよ」
「ここにいて、安心感はあるの。だけれど」

訥々と零す。
彼の姿は分からない。
私のその科白を聞いて、どう感じたかも分からない。
反応はいつものように直ぐには返ってこなかった。
しん、と沈黙が流れる。
再び落ちる雫の規則正しい音が聞こえる。
沈黙はその音を次第に大きくしていく。

耳を支配する音が頬に落ちて弾けて流れていく、その雫だけになった時。

「そうか」

そう返ってきた。
彼の声は今までと変わらないようだったけど、全く違うことに私は気づいていた。
彼の声を私は何度も何度も耳にしていたのだ。
もう何度聞いたかも分からないほど。
だからその微小な声の震えの違いさえも感じ取れてしまった。

私の視界に影が色濃く落ちる。
それはあの空を舞っていたあの影でも、毎日私の頬を流れるあの雫でもない。
5投稿者:黒嶋  投稿日:2017年08月18日(金)21時27分52秒
途端、私の視界は真っ黒に塗り潰された。

抉るような鈍い音が鼓膜いっぱいを埋める。
私は声にならない悲鳴をあげた。
『私の下』が痛い。
ぱたぱたと雫よりも質量のあるものが地面に撒かれる音がした。
それは私の頬も掠め、腔内にも飛んできた。
厭な舌触りと青い味に飛び散るそれが私の居た土だと分かった。
空(くう)を横断していたあの影と同様に、風を切る音がする。
同時に私の体にも空気の圧がかかる。

私は飛んでいる。

正しくは、何かにぐいぐいと持ち上げ引っ張られているようだ。
相変わらず私の下は軋んでいる。
今まで感覚の無かったそれは、存在を取り戻すように痛みを伴っている。
宙にぶら下がり、反動で意志とは勝手に動くもので、確かに感覚はあるものの自分のものとはとても信じがたかったが、確かにそれは私の半身なのだと、何かの直感で感じた。
視界を閉ざされたとは一瞬のことで、今は真っ青が広がっている。
眼球の可動範囲は相変わらず自由が効かず、自分を持ち上げているものの正体を見留めることは叶わない。
6投稿者:黒嶋  投稿日:2017年08月19日(土)06時30分27秒
ぐんぐんと身体が上昇し続けるのを感じていた。
不思議と、影に抵抗しようとは思わなかった。
叩きつけるようだった空気も、ふわりと包み込むような心地いいものへといつしか変わっていった。

この影の主はなぜ私を掴んで上昇するのか。
どこに向かって羽ばたいているのか。
全く明瞭としなかった。
せめてものを少しは話してくれる者ならば良いものだが。
「あ、の」
声を出せるのを確かめるのも兼ねた細い声を相手にかけてみる。
しかし、いややはりというべきなのか、そちらから声の返ってくることはない。
それでも久しぶりに声を出したら安心感が芽生えてきて、もっと唇を震わせたい、声を出すことで今の心細さを解消したいと思え、もう一言そえる。
「私はどこに行くんでしょうか」
短く息を吸い、なるたけ相手に届くように配慮して先程より声量を膨らませた。
やはり返答はない。
少し、影がピクリと反応した気はするので、音自体は届いているのだと思う。
言葉の通じない相手なのか、単に無視に徹しているのか。
一度声を出してしまうと、あとはもう出し続けていないと不安だった。
「なんで私だったんですか」
返答のないものと分かっていながらも、声を張る。
青空と風にその声は吸い込まれていく。
またその影はピクリとその身体を震わせた。
そして今度は、私を引き上げる力を強くした。
先程より大きく高度があがっていくのを感じる。

ふっと、たった一瞬だが黒が横切ったかと思えば、青一色だった世界がいなくなっていた。
そこは白い空間だった。
影は少し飛ぶと、その高さから私を離した。
私は半回転してそこに落とされる。
地はふわりと私を包み込んだ。今までに味わったことのない心地よさを感じる。
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